生き方オンリーワン

生き方は目標でなく過程

私は東日本大震災の最中とても幸せだった

不謹慎だと罵られようが一人の男の考えをここに書きたい。

 

当時私は実家ぐらしの学生であった。

父、母、姉と私の4人家族。一般的というに相応しい家庭だったろう。

 

だが私は何となく家にいても嫌な気持ちだった。

食事の最中携帯をいじる姉、夕食の場にいない父、テレビに夢中の母。私自身もテレビを見たり携帯をいじったり、PCと向き合いながら食事をとることもあった。

 

もっと幼いころは家族4人今日あった出来事を語らいながら食事をしていた。

だが数年の時を経ただけで電子機器と一緒に食事でもとっているかのような惨状だ。

 

私が悪いことも自覚している。

だから現状に不満を感じながらも毎日を過ごしていた。

 

震災発生

 

そんなある日東日本大震災が起こった。

部活で学校にいた私はすさまじい揺れに非日常への興奮と恐怖が入り混じったような感情を抱いていた。

学校内の水道管が破裂し、部室の中は私物や倒れたロッカーでごった返していた。

様々な部員が部活動中だというのに携帯を手に取り連絡をとろうとした。

 

混乱から数分散り散りになった生徒たちを教師陣が校庭にかき集めた。

空からは雪が降り始めていた。

 

遠くから通う生徒は電車が止まっているため親御さんが迎えに来るまで学校に待機することに。

近場というか電車を使わない生徒は各自帰路につくことも決まった。

 

私は自転車で40分ほどの場所だったため帰宅する側だ。

帰路の途中ガタガタに歪んだ橋に驚き、地震の規模の大きさを改めて認識したのは鮮明に覚えている。

 

遠回りしつつ吹雪のようになってきた雪の中家へ向かうと近所が水で浸水しきっていた。

私はマンション暮らしだ。

幸いと言えば不謹慎だが浸水箇所は1階のみで3階住みだった私の家は無事だった。

 

とはいえ帰宅できないしどうしようかと悩んでいると父に出会った。

いつもは仕事で忙しく夜遅くにしか帰らないのだが、この緊急時急いで帰ってきたようだ。

 

そこで母親が近所の高台に位置する小学校に避難していることを知った。(余談だが私も母親とは携帯で何度か連絡をとっている。しかしメールでのやり取りしかできず、しかも母はメールが苦手で私の知りたい情報を返してくれていなかったのだ。「無事だよ」や「ご近所さんと一緒だよ」などとしか)

 

小学校へ向かうと母、そして姉がいた。

教室の片隅、仲の良いご近所さん達と円を描くようにして一緒に。

 

無事とはわかっていたが家族全員が生きていたことに心底ほっとしたのを覚えている。

 

それからは雪のせいでびしょ濡れの衣服を乾かすために体育館のストーブ前に向かったり、食事の配給の列に並んだりして一日を終えた。(再び余談だが3月ということもあってインフルエンザの子が多かった。ゲホゲホという咳が聞こえるたび調子が悪くなった気がした。夜間は津波に飲まれながらも奇跡的に生還した人が運び込まれた。)

 

震災から1日が経過した。

汚い話だが腹痛を感じ便所へ向かうと便器には山のようになった排泄物があった。

 

これを流すためにプールから水を運ぶ手伝いもした。

 

ここからが本題になる。

私が東日本大震災の最中幸せだった理由だ。

 

2日目になり水も引いたためマンション内に入れるようになった。

様子を見るのと、小学校では避難民が多すぎてまともに休めないため帰ることを決めたのだ。

 

自宅へ帰ると棚が倒れ、いろんな荷物が散乱していた。

私達家族は4人で手分けしながら割れた皿を片付けたり、棚から飛び出た荷物を片付けた。

 

そんなことをしているうちに夜になった。

幸い災害時用の食料があったのでその日はそれを食べることに。

 

久しぶりに4人が揃って食事をとった。

当然電気もガスも水道も止まっていたので暗闇の中ろうそくを一つ机の中央に置いてだ。

 

いつも会話のない家族だったが沈黙に耐え切れなかったのか母が口を開いた。

「大変だったね」とか「親戚の人も無事だったみたいだよ」とかそんな話だったと思う。

それに父が答え、姉が口を挟み、私もちょくちょく言葉を交わした。

 

楽しかった。

外はとても静かでまるで自分たち4人しかいないようだった。

 

私は幸せだった。

 

震災から2日目となり水の調達のために日中私と父は外出することになった。

姉と母は家で使えるもの探しや昨日できなかった細かい部分の整理を行った。

 

いつもは一緒にいられない父と水を分けてもらうための長蛇の列に並び他愛のない会話をした。

 

私は幸せだった。

 

昼には家に帰った。

母がガスコンロを利用して素麺を茹でてくれていた。

「夏場の余りが残ってたの」

時期はずれじゃないかという父のツッコミに母はそう笑って答えた。

 

食事が終わると父が車が動くかどうかの確認をしに行った。

動くとわかったのでガソリンスタンドへ行きガソリンを調達することに。

その時は姉が一緒に行きたいといったので空気を読んで私は家に残り母と一緒に整理をした。

 

そんな感じで毎日を過ごしていった。

車を走らせ仙台市の親戚から食料を貰いに行ったり、ご近所さんとそれを物々交換したり、水の調達にいったり。毎日生きるために必要なものを調達した。

 

そんな日々が楽しかったのだ。

母も父も姉もいて、苦労話や楽しかった話を語り合う。

そんな他愛のない時間がとても幸せだった。

 

だがそれも長くは続かない。

1週間が経ちガスと水道が復旧した。

2週間が経ち父は仕事に向かうようになった。

3週間が経つと電気も復旧し、いつもとそれほど変わらない日常が戻ってきた。

 

いつの間にか家族は震災前に戻っていた。

私は悲しい。そして悔しい。

簡単に電子機器や便利なものに流される自分が。人が。

 

この震災の経験から私はこう思っている。

技術が発展した現在より、もっと原始的な人同士が現実世界で向き合って語り合えるそんな状況のほうが人は幸せだったんじゃないかと。

 

技術はこれから先どんどん発展していくだろう。

それはきっと悪いことではない。器用な人間は科学による幸福も原始的な幸せも両方享受できることだろう。

でも皆が皆器用に生きられるわけではないのだ。

 

私は便利なものに飛びつくし、探せば幾らでも楽しい物を簡単に見つけられるネットを使い続けるだろう。

それは心が弱いからなんだろう。

だから私が思うのは強制的に便利さを享受できなくして欲しい。

 

もっと言うなら私の周りの人間からも。

そうすれば人は原始的な人同士の関り合いを取り戻して幸せだったあの頃に戻れるのではないかと、そう思う。

 

私は東日本大震災の最中とても幸せだった。

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